髭切に新たに生じた記憶について

 頼朝と三日月のやり取りが、記憶として髭切に流れ込んでくる。
 実際の刀剣・髭切が新たに経験・観測した事象が、刀剣男士・髭切に記憶としてフィードバックされるこのシーンは、三日月宗近の行動原理を考える上で非常に重要。

 刀剣男士として顕現した後でもその核となった刀剣が経験したことが新たに記憶として追加・蓄積されていくということは、刀剣男士は特定の時代・時間から選択的に呼び出されたものではなく、ありとあらゆる時代・時間に於ける自己を包括する形而上的に高次な存在であることになる。
 いささか抽象的な例えになるが、我々人間であれば、子供の頃に右手に小さな火傷を負ったとする。その場合、火傷を負わなかった自分という可能性は消滅し存在しなくなる訳だが、これが刀剣男士の場合は火傷を負った自分も火傷を負わなかった自分も矛盾を来すことなく「かつての自分」に成り得るのだ。

 刀剣という核を持つ以上それは際限のないものではなく、箱の中の猫よろしく「観測されること」が条件ではあるのだろうが、彼ら自身が過去へ渡る手段を持っているのだからその条件が満たされる可能性は幾らでも存在することになる。
 この辺り、付喪神とはいえやはり神様は神様なのだなと思わざるを得ない。