幕末天狼傳2020雑感

 始まりましたね、幕末天狼傳2020
 このコロナ禍で皆さまも大変な思い、苦労、不都合を被っておられるかと存じますが、それが故に試みられた全公演ネット配信。
 これについては一人の刀ミュファンとして感謝しかありません。
 なにせ熾烈なチケット争奪戦の勝者に選ばれなくても! 時間とお金さえあれば! 刀ミュの公演が自宅でリアルタイムで鑑賞できる!
 様々な意味で去年には考えられなかった事態ですが、運営陣の配慮と実現に向けた労力には感謝しかありません。

 さて本題に入りましょうか。実に四年の時を経て再演となった幕末天狼傳。もう既に良く知っている筈のお話が、見たことのないものになっているこの衝撃。
 あれ?再演ってこういうのでしたっけ? 阿津賀志・巴里なんかもだいぶ演出などは刷新されてましたが、基本的な構成や楽曲に大きな変更は無かったのに……。
 新曲が多い! あの人も、あの人たちまでも歌う! 舞台装置すげえ! キャスト陣の成長も目覚ましいし、より「ミュージカル」として進化し、深化したこれを再演という言葉で表現してしまってよいものか。
 いやまあ、物語の大筋に変わりはないんですけどね。だからこそ凄い。「見せ方」で物語というのはこうも装いを変えるのかと、演劇の、舞台芸術の妙味というものをまざまざと見せつけられた心持ちです。
 とはいえ、あくまで物語として初演と比較した場合、演出上の差異では片づけられない変更点が一つだけありましたね。
 てっきりあそこは『葵咲本紀』における「先輩」こと稲葉江のような感じで、菊一文字をはっきり登場させる形に変えてくるのかなあと予想していたものですから、もはや耳慣れた感のあるあのフレーズが流れ出した時には、思わず「そっちで来たか!」と手を打って声を上げてしまいました。
 という訳で、以下には「あの部分」についての私なりの考察をネタバレ全開で記述しておこうかと思います。
 なんのこと? という方はここで回れ右して、絶賛配信中の幕末天狼傳2020をご覧になった後に、宜しければまたここを開いてみて下さいね。

 

 
 初演では、おどろおどろしい化け猫が沖田総司に憑依し、背後に菊の紋が描かれるという演出だった件のシーン。
 そこでまさか『華のうてな』のあのフレーズに「よきかな、よきかな」という正体バレバレの台詞までぶち込まれ、混乱を来した方は多かったのではないでしょうか。
でもこれで、今までいまいち不明瞭だった三日月宗近の行動理念、その核心めいたものが見えてきましたね。
 基本的な前提は当blogの『つはもの』の考察記事で述べた通りですが、なにぶんもう随分と以前のことなのでここで一度整理してみます。

1.「刀剣・三日月宗近」が二二〇五年の世界にも現存しており、それを本体として無数の審神者によって無数に顕現した「刀剣男士・三日月宗近」の一振り一振り全てを知覚・観測し、ある種の集合知を形成している。


2.これによりミュ本丸の三日月は「歴史を守ること」に失敗した別の自分、ひいては本丸がどうなるのかも知っている。


3.それを公言しミュ審神者や仲間たちに協力を求められないのは、本丸に処分を下すものと本丸に正義を示すものが同じ存在、つまり彼らの上位機関である「時の政府」であるため(※これは状況証拠からの予測)。


4.それ故に三日月は「時の政府が求める正しい歴史」を守ることで本丸と仲間たちを守ろうと孤軍奮闘しているが、これは時に「審神者の考える正しい歴史」とは齟齬を来す(※これが『つはもの』での小狐丸との対立であり、場合によっては暗躍に見えてしまう理由)。

 これに『葵咲本紀』で追加されたのが、

5.「この世界には三日月宗近という“機能”がある」=集合知どころかアカシックレコードに片足突っ込んでた。

 となりますが、まだ分かりにくいですね、これ。
 もっとザックリ纏めると、三日月宗近の行動の大前提にして第一義は「歴史を守ることで本丸(審神者と他の刀剣男士たち)を守る」。これだけです。
 ですがこれまで出てきていた情報の中からでは、何故そうまでして身を粉にして孤軍奮闘できるのか、その核の部分が見えてきませんでした。
別の誰かがどうにかしてくれるのを期待して、知らぬ存ぜぬで「給料分だけ」仕事してたって良かった訳ですよ、彼は。
 けれど、そうはしなかった。どうしてでしょう? 愛ゆえに? ではその愛はどんな愛ですか? 友愛? 家族愛? ただの情愛?
 今回、幕末天狼傳2020で三日月宗近が干渉したのは、今際にあった沖田総司でした。ここでまず勘違いしてはならないのは、沖田総司が物部になった訳ではないという点ですかね。
 物部というのはあくまで「時の政府」に干渉されようがない外部協力者、以上の意味合いはなさそうなので、三日月が働きかけた人間がすべて物部に該当するのではありません。
 今回、沖田総司近藤勇の処刑現場まで向かったところで、歴史は小ゆるぎもしてませんしね。結局のところ近藤勇は死に、沖田総司も程なくして息を引き取る。結果的にはそれが全てです。
 では、三日月宗近は何をしたのでしょう? 残された結果だけを見れば、それは一目瞭然。
 加州清光と大和守安定が劇中で口にのぼせた想い。即ち、元の主の最期にその傍に居たい。それが叶えられただけ。
 今回、新たに追加された楽曲で、清光と安定はお互いを野良猫に例えました。三日月が仮託したのもまた、沖田総司の元を訪れた野良猫。
 ならば沖田が目にしたその猫は、いかにも扱いにくそうで、きっと外はね気味の尻尾で……、眼は吊り目か垂れ目か、どちらだったのでしょうね。
 ここで私が想起したのは、『つはもの』で三日月が今剣に向けて口にした一つの台詞です。
 曰く、『想いを残すな』
 これです。三日月の行動の核は。どこにも情報が無いなんて思っていましたが、既に三日月自身が明言していたとは完全に盲点を突かれました。
 この干渉により「想いを残さなかった」のは、清光と安定だけではありません。沖田総司もまた、近藤勇の今際に駆け付けたことによって心残りを晴らすことが出来ました。
 もし想いを残せばどうなるかは、『葵咲本紀』の稲葉江で描写された通り。穿って見ればただ「敵を増やさない」為の措置とも取れますが、ミュ本丸の刀剣男士たちは皆が皆「優しい」のはご存じの通りかと思います。
 歴史を守り、仲間を守る。守るとは、肉体的、物理的な意味だけでなく、心も守ること。
 それが三日月宗近の行動理念なのだと、今回のこのシーンがようやく紐解いてくれました。