歌合乱舞狂乱2019・雑感と解説

お久しぶりになってしまいました。皆さん、歌合乱舞狂乱2019は如何でしたか?

まさかこんな僻地に来て下さるような方が未見とは考えにくいですが、この記事はネタバレ全開の内容になっています。全開すぎて千秋楽の配信が始まるまでは下書きを書くことすらしていませんでした。

なにせ今回、会場に居た全ての審神者との約束でネタバレは厳禁でしたからね。書いた以上は誰かに読んでほしいと思う質なので、そもそも書かないという選択をしたのですが、なればこそ本当に早く書きたかった。そして、いざ書き始めてみたら思っていた以上に書くことが多くてディレイ配信の視聴期間には間に合いませんでした。

それでは、以下は本文となります。歌合を未見の方は自己責任で回れ右をお願いします。

長いです。一万字近くなりました。

 

 

 

判者(はんざ)。左右の歌の優劣を判定して勝敗を決める役。
 鶴丸国永

講師(こうじ)。歌合の場で歌を読み上げる役。
 右方(みぎかた):今剣
 左方(ひだりかた)堀川国広

まず判者である鶴丸国永によって、第一の炎が点火。

 

M2『神遊び』

如何ばかり良き技してか 天照や
日霊(ひるめ)の神を暫し留めん 暫し留めん
火鑚 火熾し 斎火(いみび) 絶やすことなかれ
筆を持て 焙り出される本性 歌を綴れ 曝け出される欲望
描き出されるは 秘められた想い
爪を持て 脅かされる秩序 歌を綴れ 越えてはならぬ一線
篝火揺れて 神々の影踊る
覚悟はあるか 覚悟はあるか
神々に捧げる歌 交わされる歌
さあ始めよう 歌い 競い 乱れ舞う宴
歌うたう 桜咲く 音踊る uh...
左に 右に 青に 赤に 神の随に
花を愛で 風を立て 恋煩う uh...
左に 右に 青に 赤に 神の随に
神遊び 貴方と 歌合せ

 「日霊(ひるめ)」というのは天照大神の別名の一つです。それを「暫し留めん」ということは太陽の運行を留めるということですが、要するに「以降のお話は時間軸に沿ったものではないので、時系列は気にしないでね」という意味合いかと。時間停止とかそういう意味ではありません。
 この部分を始め、この歌の歌詞は「これから行われる歌合なるものがどのような代物か」を説明するものでもあります。
留意しておきたいのは「本性」、「欲望」、「秘められた想い」の三点。以降に披露される劇中劇は、この三点の内のどれか、或いは複数の要素を持った物語となっています。
 そして本来の歌合では青装束の左方が先に歌を披講するのですが、歌合乱舞狂乱では赤装束の右方が先行します。
 これにもおそらく意味があると思うのですが、確たる理由付けは不明。第一の歌が「あめつち」から始まる辺り、天と地、陰と陽、人と神らの対比を強調し、人の為す技(本来の歌合)に対してこれが「神遊び」であることを印象づけるため?
 あるいはこれが神降ろしの儀式という意味を持つ以上、人が歌(想い)を紡ぐ本来の形とは逆に、歌が付喪神受肉させるという因果逆転の示唆?
 などなど、こじつけは色々できそうなんですがね。


壱・「天地の 神を祈りて 我が恋ふる 君い必ず 逢はざらめやも」万葉集・詠み人知らず)
方人(かたうど。歌合の歌を提出する者):石切丸

 ミュ本丸の、とある一日の一コマ。穏やかで温かで、和気あいあいとした緩やかな光景。
 物語の本筋はどうしても戦いが中心になり、哀惜や憐憫の涙を誘う悲劇が描かれがちなため、この優しさに満ち満ちた情景には「これが見たかった!」と膝を打った方も多かったのではないでしょうか。
 ここで示されるのは、多様性。碁石がたてる音、それが何の音に聞こえるか。個々の刀剣たちが様々な意見を述べていきますね。
 結局口にはされませんでしたが、御手杵が連想したのは……焼夷弾の炎で自身が焼けた時の音でしょうか。
 着目したいのは自分の主張はそれぞれにあっても、誰もが他の解釈を否定しない点です。
 自身の向上のためレッスンに執着してしまう籠手切江をやんわりと窘める小狐丸と、すぐさま代替案としてお百度参りを提案する石切丸ですが、これも別にレッスンそれ自体を否定した訳ではなく、目先を変えることで自然と肩の力が抜けるようにという親心(?)からくるもの。
 石切丸自身もまた、今剣から一緒にお百度参りをしないかと誘われた際には「たまには祈る側にまわるのも良いかな」と、「人々に祈りを捧げられる側」という自分のスタンスをあっさりと翻して見せます。
 多様性を受け容れ、執着(我執)を捨て去る。言葉にすれば簡単かもしれませんが、実際に行うとなるとこれほど難しいこともなかなかありません。
 それが「本性」というのであれば、いやはやさすがは石切丸。そして祈りというのは願望であり、つまるところ「欲望」の一つの形態ですが、これほど胸を打つ、優しい「欲望」もそうは無いのではないでしょうか。
 一意専心、一心不乱に求め行動するのであれば、君の願望はきっと叶う。石切丸はこの歌をそう詠んでいます。

 

弐・「世の中は 夢か現か 現とも 夢とも知らず ありてなければ」古今和歌集・詠み人知らず)
方人(かたうど)蜻蛉切

 やあ金平糖! 盛大な美声の有効活用(?)。いいぞ、もっとやれ!
 さて、一見ギャグテイストの強いこのお話ですが、今回唯一の戦闘シーンが描かれるのもここです。たとえその相手が金平糖であれ、夢の中のことであれ、否、夢の中であればこそ戦いというものから離れられぬ蜻蛉切の「本性」が如実に浮き彫りにされています。
 常在戦場。刀剣男士として、無双の槍としての己が本分を忘れず、弛みなく自らを律し鍛え上げるその在り方は蜻蛉切の大きな魅力ではありますが、寝ても覚めても戦から離れられないというのは見方によっては哀しくもあります。
 戦い、それ自体への執着。刀剣男士は誰しも少なからずその傾向は持っているのですが、ここに登場する六振りは(今回出陣した中では)特にそれが強いように思います。
 蜻蛉切は常勝不敗にして手傷一つすら負ったことのない元の主のようにあるためには、そも戦場にあり続け己の無双を証し立てなければなりません。長曾根虎徹もまた戦いの場でその性能をまざまざと発揮しなければ、「虎徹」であるその在り方を証明できません。巴形薙刀はそも自らの物語を持たぬが故に、自身が本丸の戦力であることに己の存在価値を見いだしています。にっかり青江は幽霊といえど幼子を斬った己に対し自罰的に戦の場に身を置くことを是とし、大和守安定は扱いが難しいが故に性能を発揮できる場を求めています。穏やかな印象のある堀川国広ですが、実在したかも分からないあやふやな存在であるため、やはり戦の場で性能を示さなければ己の存在を立脚し和泉守兼定と共にあることはできません。
 では、そうした戦いを希求する六振りが総じて求めてしまう、金平糖とは?
 ちなみに金平糖という日本語の元になったのは、ポルトガル語confeito(コンフェイト。砂糖菓子の意)ですが、更に語源を遡ればラテン語confectus(コンフェクタス)。意味は作り上げる、成し遂げる、など。
 鍛錬を重ね心技を「作り上げ」、歴史を守るという目的を「成し遂げる」。実に刀剣男士らしいワードではありますが、これが他の媒体であればまさかそこまでと思うところ。ですがこれはミュージカル刀剣乱舞。曲名を「confeito」とした意図をも汲めば、刀ミュ大好きおっさんの私としては当然そこまで織り込み済みと考えます(厚い信頼)。
 であれば金平糖が暗喩しているのは、ともすれば淡く消えゆくものであり、目的を成すための原動力たるもの。刀剣男士にとってそれは、人との縁であり、相対する敵であり、自分たちの生や在り方でもあります。
 実のところ、誰よりも「金平糖」に執着していたのは蜻蛉切自身。けれど知ってか知らずか、彼はそれを仲間たちと分け合うことを選択することができました。
 夢とも現とも知れぬ無常の世なればこそ、在るも無きも自らの力と意思、そして仲間たちの助けを借りて選び取る。この本丸で得た蜻蛉切の成長と覚悟とが、この歌をそう詠ませています。

 

参・「夏虫の 身をいたづらに なすことも ひとつ思ひに よりてなりけり」古今和歌集・詠み人知らず)
方人(かたうど):にっかり青江

 にっかりさんの独壇場! いや素晴らしいですよね。玄人裸足の講談師ぶりに、座ったままでの豊かな歌唱。なにより正座したままの姿勢の美しいこと。
 講談とは主に軍記物など歴史にちなんだ読み物を読み上げる話芸であり、題材に注釈を付けるという形式が取られます。ここで選ばれた題材は、雨月物語の中の一篇、「菊花の約(ちぎり)」。話の大筋はにっかり青江の口から語られますので詳細は省きます。ここで描かれるのは、にっかり青江の抱える「欲望」、そして「秘められた想い」。
 交わるとはどういう感触なのか、知ることはできない。それを知ってみたい。自身が口にしたその欲望に対し、菊花の約という物語に仮託された彼の秘められた想いが垣間見えるという構成ですが、皆さんはどう受け止められたでしょう。
 人魂と幽霊の違いを、情念と執着とが強くどす黒くなるほどにくっきりと形を成すと語るのは、つまりこうして人の身を模し肉体すらも得てしまった己は、幽霊よりも更にどす黒く業が深いという卑下の表れでしょう。であれば、「菊花の約」に語られる丈部左門と赤穴宗右衛門の関係性、信義の交わりといったものは、にっかり青江にとって己に欠けているもの。本当は望ましいもの、自身が美しいと感じるものなのでしょう。
 きれいな光に、清らかなものに羨望し、渇望し、己もそう在りたかったと希(こいねが)う。それが青江の秘めたる想い。
 石切丸に対しては神剣になりたいという望みを口にしたこともあれど、普段はむしろ露悪的に振る舞うことの多い不器用な彼の場合、こうして「うっかり喋り過ぎる」機会というのは自身の思いを吐露する貴重な自己表現の場なのでしょうね。
 夏虫と同じようにどうしても明るい光に惹きつけられてしまう。例えその結果、毒に蝕まれ身を滅ぼすことになろうとも、あの光に触れられるのであればそれも本望。そう詠んだにっかり青江でした。


肆・「梅の花 折りてかざせる 諸人は 今日の間は 楽しくあるべし」万葉集・神司 荒氏稲布)
方人(かたうど):明石国行

 講談に対する漫談! いえ、しゃべくり?
 生まれも育ちも板東の田舎もんにはようわかりまへんが、上方のほうではそない言いよりますん?
 さておき、題材を置きそれに注釈をつける形の講談に対し、世間話から始まり世相批判などを行ったり、ただただ馬鹿馬鹿しい話に終始する場合もありますが、基本的には笑いを取ることを旨とする話芸。
 この話の場合は、性質的にどうなんでしょう。個人的にはあんまり笑える要素はないんですが、世相批判寄りの内容でしょうかね。
 梅の木を歴史の流れに見立て、その枝を折ることを歴史修正に準えるなんて見方もできますが、その場合むしろ、色々な枝を増やして梅の木の姿を変えたいのが時間遡行軍で、そういう枝を折ることで梅の木を守るのが刀剣男士の本来の役目ですよね。ましてや梅の木自体を無かったことにするなんて、言語道断でしょう。
 葵咲本紀では歴史が変わってしまっていることに批判的な態度をとっていた明石国行だけに、枝を折ることを皮肉る内容なのはナゼなにwhy?
 ……などと最初は思ったのですが、要するにこれ、「本当は歴史を変えてしまいたい」という明石の「秘められた想い」の表れなんですね。
 なぜならミュ本丸には、彼が保護者を自認する同じ来派の愛染国俊も蛍丸も顕現していない。なかでも蛍丸は本体が太平洋戦争後に行方不明になっています。未だに蛍丸が刀剣男士として顕現していないのは、行方不明になってしまっているから。そう考えたのであれば、その愛情が深ければ深いほど歴史を変えたくなってしまうのも無理がないように思えます。
 まあ蛍丸と同じような時期に東京大空襲で焼けてしまっている御手杵が顕現しているのですから、そういうものではないと明石も理屈では分かっているのでしょうが、理屈で感情が抑えられるのであれば苦労はありませんからね。むしろ普段そっけない明石国行の人間味あふれる部分が垣間見えて、とても微笑ましい。
 話に登場するのが今剣と小狐丸なのは、「つはもの」で源義経が生き存えるという歴史の枝葉を折らなかった彼らへの皮肉でありましょうか。
 ま、色々をしょーもないこと考えることもできるんが、この話の面白いところでっしゃろか。うん、おっさにわ的にはやっぱりあんま笑えないかな。
 せっかく刀剣男士として顕現したのだから、泡沫のこの生、せいぜい楽しく謳歌しましょうよ。明石国行としては、こんな風に詠んでる感じですかね。


サツマイモ:山の幸
鯛:海の幸
 二つまとめて神餞? 歌はないので炎も灯らず、とうぜん八苦からも除外されるであろう二つのエピソード。これが神事であるならば御饌(みけ)が捧げられていないのは確かに不自然なので、必要か必要でないかで言ったら必要なんでしょう。……と思っていたんですが、ちゃんと意味がありました。それについては『君待ちの唄』の解説部分にて後述。
 となると随所に挟まれる乱舞狂乱パート(過去作の既存楽曲ライブ)は、神楽ということになりましょうかね。
 あえて着目するとすれば、吾兵の影響を受けて畑当番に熱心な大倶利伽羅の姿でしょうかね。一見クールで一匹狼な風でありながら、実は内面が幼く他者の影響を受けやすいという彼の本質が如実に表れていて面白いです。決め台詞の「馴れ合うつもりはない」も、馴れ合うとすぐ影響受けちゃう自覚があるから予防線を張ってるだけなんですよね、なんだこいつ可愛いぞ。
 余談ですが他に差し挟む場所が無さそうなんでここで書いておきますが、物吉貞宗なんかが歌合パートで出番がまったく無いのは、おそらく人格が安定しすぎてて「本性」も「欲望」も「秘めたる想い」も何もあったもんじゃないからです。逆にやたらと出番の多いにっかり青江に至っては、推して知るべし。
 要するに、出番がない=裏表がなく純粋。善しにつけ悪しきにつけ、そういう仕様と思われます。つまり物吉くんは天使。
 定命の存在の生きる原動力というのは欲望に他なりませんので、本来は神様側の存在である付喪神を顕現させるのは苦の源にもなってしまう欲望と執着を植え付ける。理にはかなっていますが、神事と言うよりは呪(かし)りですよね、これ。そういう意味では、歌合を見る前に書いた以前の記事で、イネイミヒタクク~を強引にそのまま詠んでみたあれ、方向性としては合っていたように思いますが、どうでしょう。


伍・「ぬばたまの 我が黒髪に 降りなづむ 天の露霜 取れば消につつ」万葉集・詠み人知らず)
方人(かたうど)和泉守兼定

 日本では古来より「髪」は「神」に通じるとされ、生命のシンボルとして願掛けやまじないに用いられてきた歴史があります。髪には念がこもりやすく、手入れを怠り艶が無くなれば邪念を溜め込むとも言われますし、仏教的には髪は権力や精力の象徴であり、装飾品で飾るのに最も適した場所という考え方があるので、お坊さんはそれらの欲を断ち切るという意思表示として剃髪をします。
 特に女性の髪には霊力が宿るとされていますが、刀剣男士の髪ともなればそれは素晴らしい霊力が宿っているのでしょう。ですがこれまでの流れに当てはめれば、和泉守兼定の美しい黒髪も自信を飾り立てたいという「欲望」の象徴と受け取らねばなりません。
 髪を洗うという行為には、そこに籠もってしまった悪い念を洗い流すという意味合いがあります。ここまで突出して出番が多かった、つまり情念が殊更に深いにっかり青江も、ここで髪を洗うことにより出番終了と相成りますように、洗髪というのは立派な邪気祓いの一つです。皆さんもどうも気持ちが落ち込んだり塞ぎ込んでしまったりということがあれば、まずはお風呂に入って髪のお手入れをするなり、散髪してさっぱりするなりをお勧めしますよ。
 おっと、話が横に逸れました。とは言え、このパートに関してはあんまり語ることがないんですよね。
 神が髪を手入れ(邪気祓い)して、願掛けを行う。千子村正たちの無事、生還を祈る。「生きて還る」は「生まれ来たる」。この歌合の性質を考えれば、ある意味もっとも直接的な内容とも言えるでしょう。
 まあ、難しいことは考えずに優しい六弦琴(ギター)の調べと清々しい空気に身を委ねるのが正解でしょう。え、国広? あれが平常運転ですよね?
 今日に明日に、貴方にも時津風(折良く吹く追い風)が恵まれますように。
 この身に何がこもろうが、そんなのは手に取れば消えちまう程度の取るに足らないものさ。実に兼さんらしい詠みですね。


陸・「二つなき 物と思ひし 水底の 山の端ならで 出る月影」古今和歌集紀貫之
方人(かたうど):小狐丸

 熱心な刀ミュのファンの方であれば、ミュ本丸には二振りの小狐丸が居ることはご存じかと思われます。
 まずはもちろん、今回も素晴らしい演技と歌唱を見せてくれた北園涼さんの小狐丸。そして阿津賀志山異聞2018巴里において、パリの地での網膜剥離のため戦線離脱を余儀なくなれた北園さんに代わり急遽の代役を任され、あわや公演中止という危機を救って下さったダンサーの岩崎大輔さん演じる小狐丸。
 もうね、その二振りの小狐丸が一緒に舞台に立ち、共に舞い踊るというその光景だけで、刀ミュ大好きおじさんとしては涙腺崩壊なわけですよ。なあに、この粋な演出。神か? うん、知ってた。
 閑話休題。森羅万象に陰陽あり。この世のすべてには表と裏がある。それは刀剣男士とて例外ではありません。小狐丸とて二面性を併せ持つという「本性」、油揚を食べたいという「欲望」。そして私が着目したのは、残る「秘められた想い」です。
 この話の終わりに、小狐丸は明石国行に向かってこう語ります。「信じても良し。信じなくても良し。私は信じ、もう一振りの己を受け容れた。それもまた良し」と。
小狐丸にとって「もう一振りの己」という言葉は重い意味合いを持ちます。それは己が刀身の裏に刻まれた「宗近」の銘。つまりは三日月宗近のこと。
 「二つなきものと思いしを……か」という呟きにも、それが如実に表れている。「つはもの」をご覧になった方なら、きっと共感いただけるでしょう。泣くわ、こんなん。
 梅の木のくだりで明石国行が主張したのが歴史の多様性を受け容れることへの批判だとすれば、ここで小狐丸が主張しているのはそれを断行した己たち、ひいては主導した三日月宗近への擁護ともとれます。
 それを抜きにしたとしても、何事にも表と裏があるという観念を示すことは、明石国行の抱える問題にとっては救いとなります。何故なら虚構も現実も表裏一体であるということを否定してしまえば、それは現実では既に失われてしまっている蛍丸という存在が顕現する可能性を明石自身が否定することになってしまうからです。
 靭性を失えば容易く折れてしまうのは、刀剣たる彼らも、そして歴史も同じこと。多様性を受け容れ一丸となるというのは、最初に石切丸が示したのと同じものであり、これは仏教用語にいう「本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」、始まりも終わりも突き詰めれば同じものという様相を呈します。やはり刀剣男士の中でも三条は別格という感がありますね。
 固定観念や思い込みは捨て、見たまま、あるがままを受け容れる寛容さを持つべきだ。小狐丸はこの歌をそう詠んでいます。


M28『君待ちの唄』

一つ 心の臓が脈打ち始め
   (玉鋼 水減し 小割り)
二つ 赤き血は巡り廻る
   (積沸かし 折り返し 鍛錬を)
三つ 眼は未だ光を知らず
   (造り込み)
四つ 手足は分かれ指を成し
   (素延ベ)
五つ 耳は音の意味も解らず
   (火造り 切先(きっさき) 鎬(しのぎ) 茎(なかご))
六つ 口は未だ言葉を持たず
   (生砥ぎ 土置き 焼き入れ)
七つ その肺に空気を吸い込めば
   (鍛冶研ぎ)
君は産声を上げるだろう

宿れ 宿れやらむ その生命(いのち) その形質(かたち)
宿れ 宿れやらむ その歴史 その身体(からだ)
祈れ 祈れやらむ その約(ちぎり) その禊(みそぎ)
祝え 祝えやらむ その宿命(さだめ) その役目

此方へ 此方へ 此方へ サアサア
此方へ 此方へ 此方へ サアサア

宿れ宿れや 祈れ祈れや 祝え祝えや 君待ちの唄
宿れ宿れや 祈れ祈れや 祝え祝えや 君待ちの唄

   イネイミヒタクク
   ワサワカハケララ
   サクツハヤミオミ
   クツヤヒカカツ
   ノヒヅミハオチ

   イネイミヒタクク
   ワサワカハケララ
   サクツハヤミオミ
   クツヤヒカカツ
   ノヒヅミハオチ

   イネイミヒタクク
   ワサワカハケララ
   (刻は満ちた)
   サクツハヤミオミ
   クツヤヒカカツ
   (満ち足りた)
   ノヒヅミハオチ

八つ 今こそ呱呱の声を上げたまえ

 一つ~八つは、母親の胎内で胎児が成長していく過程。呱呱の声というのは、赤子が生まれてすぐに上げる鳴き声。いわゆる産声のことです。
 歌合を主導する判者の鶴丸国永、講師の今剣と堀川国広の三振りによって呟かれる()内の言葉は、日本刀の制作過程。
 宿れ宿れやらむ以下の、生命、形質、歴史、身体、約、禊、宿命、役目は、おそらくそれぞれが歌合パートで描かれた物語に対応しているように考えられます。
 内訳としては、
 生命=山の幸。人参、サツマイモ、馬など。
 形質=歌の弐。金平糖。星のような玉、つまりは玉鋼の比喩?
 歴史=歌の肆。梅の木と枝。
 身体=歌の陸。表裏一体。つまり刀身。
 約=歌の参。菊花の約。
 禊=歌の伍。髪洗い。
 宿命=歌の壱。お百度参り。過去と未来の行き来を繰り返す。審神者たるもの脳死周回は得意よ?
 役目=海の幸。物部(もののべ)。
といったところでしょうか。一部入れ替えても良いかなと思える箇所もありますが、概ねこのような形で対応できるかと。

 さて、いわゆる「四苦八苦」の八苦と掛けて八句の歌が詠まれなければならない筈なのですが、実際に詠まれたのは六句。冒頭、M2『神遊び』の直前に灯された斎火(いみび)と、M28『君待ちの唄』の前に灯された一つを加えて八つの炎。
 これはおそらく四苦八苦(生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦)のうち、「老苦」と「病苦」が刀剣男士には無縁であるためでしょうか。つまりミュ本丸の刀剣男士は風邪ひかない。これ試験に出ます(ぉぃ
 顕現直後の江の二振りが、なかんずく五蘊盛苦(心身が機能していることによって生ずる苦しみ)に対する呪詛を口にする辺り実に神様らしくて、最初に見た時から納得しかありませんでした。
 それにしても、鍛刀という儀式の流れを描いたと見せて、全ての産まれ落ちた生命を祝福してみせる、この内容。この巧さ。この作り込みに、このクオリティ。凄すぎません?
 私が着目して記事にしているのは基本的に脚本部分のみに着目したものですが、演出や衣装、舞台、道具など相まって、そして何より役者さんダンサーさん達の努力と汗があって作り上げられたこの歌合乱舞狂乱2019という作品。これ、番外扱いなんですか? 本編でも良くないです?
 昨年までの真剣乱舞祭も「一年を締めくくるお祭り」としては十二分に楽しめるものでしたが、物語としての作り込みはさしたるものではありませんでした。少なくとも刀ミュ大好きおじさん的には「最高に楽しいお祭り」ではあっても、今回のように筆をとるほどの熱量は得られなかったんですよね。
 今回、私は仙台公演を2日間、計2回の観覧に行く幸運に恵まれたのですが、会場中が渾然一体となった「イネイミヒタクク~」の大合唱からの「来たれ、新たなる刀剣男士よ!」のくだりはカタルシスが本当にやばかったです。私自身、喉も裂けよとばかりに大声で歌ってました。
 ただ、仙台公演で顕現したのは桑名江だったので、千秋楽のライブビューイングで松井江の顕現を見た時は「え? あれ? 桑名くんは?」とえらく戸惑いましたけどね!
いやもうね、本当に素晴らしかったです。応援してきて良かった。生で見られて良かった。刀ミュ大好きおじさんで良かった!
 この作品の制作に携わったすべての人に、百万回のありがとうを。ありがとう刀ミュ。新作公演も楽しみにしてます!