修行へ旅立つ今剣

 阿津賀志山異聞では、かつての主への思いの深さ故に、うつむき、背を丸め、愛惜に泣き叫び、仲間たちにさえ刃を向けようとした今剣。

 その彼が、つはもの~では常に胸を張り、決してうつむくこと無く、涙こそ禁じ得ずとも全てを見届けた。その成長は瞠目に値するものだろう。

 

「このなまえに、ききおぼえは、ありませんか……?」

 

 自身の根幹も、義経への想いも全て揺るがす一言を発するその時ですら、うつむきかけこそすれど、彼はきちんと顔を上げていた。


 ゲーム本編で彼を極修行に送り出し、その内容の余りの救いのなさに修行に出したことを後悔した審神者も多かろう。私なども、初めて極修行に送り出したのが彼だったこともあり、闇堕ちしたともとれるその姿に気持ちが沈んだ。何度「行かせなきゃ良かったね」と思ったことか。幾度彼の中傷ボイスを「そんなことないよ」と否定したことか。

 だが、この今剣ならどうだろう。自身の非在を突きつけられたとて、絶望に囚われ心を闇に染めたりはしないのではないだろうか。

 何故なら彼は既に知っているのだ。自分には帰る場所があること。自分という存在を認めてくれる仲間たちが居ることを。

 

 ゲーム本編の設定を否定するわけではないが、そういった意味でこのお話は、今剣への救済の物語でもある。
 この舞台へ帰ってくる今剣は、様々な意味で一回りも二回りも成長を遂げていることだろう。


「かなしいことがあっても そのつぎに ぼくらがいるんだから!」

「今日の畑当番は、逃がしませんよ」

「私はあなたのやり方が正しいとは思えない。ですが……間違っているとは思わないことにします」


 ラストシーンでの三日月と小狐丸とのやり取り。

 結局のところ自らの口では何も語ろうとしなかった三日月への、これは小狐丸なりの思いやりに満ちた最大限の肯定の言葉である。感情では納得できない、けれど自らの意思で理解を示す。この表明が双方にとってどれほど重いものであるか。


 ここでもう一度、蓮台の半座を分かち合う友が居ないことを嘆く三日月の、あの歌を思い出して頂きたい。

 隣同士に並んで座り、茶菓子を分け合う二振りの姿。互いに信念を曲げることなく、されど寄り添う。
 見ているものは未だに異なるけれど、それでも視線を向ける方向は同じなのだ。

 

 一見コミカルにも見えるこの場面に、私としては胸に込み上げてくる熱いものを禁じ得ない。

「あの鳥は北へ向かったか。まずは北へ向かうとするかのう」

「地の果て、海の果て、その向こうの大地まで、逃げ続けてやろうぞ!」


 義経が衣川館を逃げ延びたとする伝説は枚挙に暇がない。義経蝦夷に逃れたとの「北行伝説」が、八戸や三厩、北海道の松前など各所に伝わっている。変わり種としてはモンゴル平原でチンギス・カンに生まれ変わったというものなどがあるが、地の果て、海の果て、その向こうの大地まで、という台詞はその辺りも踏まえた包括的なものであろう。


 なお去年2017年に八戸で発見され、ほうき星宗近と名付けられた三条宗近の銘を持つ短刀が、発見者の推測するようにもし本当に今剣だったら……。ロマンですね。

「歴史とは水のようなもの。始めから形など存在しない」

 歴史は流動的なものであり、事象の連なりが必ずしも確定されたものではないことが三日月の口から語られる。この「歴史とは何ぞや」という認識の齟齬が、小狐丸、ひいては審神者三日月宗近との見解の相違となっている。

 

 おそらく審神者や小狐丸の認識は、時間遡行軍の干渉を排除し、かつ任務に当たる刀剣男士による不干渉を貫きさえすれば、歴史は必ず一定の流れを辿るというもの。

 一方で三日月宗近は、それでは時に不十分であるという「記憶」を有している。

 ここで源頼朝の佩刀であった髭切の新たな「経験」が、「記憶」としてフィードバックされたシーンを思い出して欲しい。
 そして三日月に対する髭切の台詞、『君だけが確かな存在なんだ』を額面通りに受け取るならば、本丸が存在する西暦二二○五年の世にも太刀・三日月宗近が現存・実在する可能性、つまりは他の多くの刀剣たちとは違い「刀剣男士として顕現した自己」を経験・観測することができる可能性が浮かび上がってくる。
 だとすれば、本丸が複数存在し、複数の審神者によって複数の三日月宗近が顕現し偏在したとする場合、彼はその全ての経験を記憶として共有している可能性まで考えられるのだ。


 これが「幾度も幾度も繰り返した」という三日月の台詞の意味。小狐丸たち他の刀剣たちとは一線を画す、膨大な経験と記憶の正体であるのではないか。
(一つ断っておかなければならないのは、二○一八年現在に実在する三日月宗近以外の刀剣も多かれど、それが二二○五年まで残存しているかどうかは刀剣乱舞公式の設定次第なので、現状でこの可能性が当て嵌まるのは三日月宗近ただ一振りのみである点。)

 三日月の記憶の中にはおそらく、「時の政府が求める正しい歴史」を守れず、任務に失敗した本丸の記憶もあるのだろう。そうなった本丸がどのような処置を受けるのかは今のところ不明だが、誰にも胸の内を明かせず孤独に奮闘するしかなかった三日月の言動をみれば、それが穏当なものだとは些か考え難い。

 

 時の政府は審神者に命令を下す上位機関に当たるが、それは必ずしも審神者や刀剣男士たちの味方であるという意味ではない。そもそも時の政府がどんな権限を持って審神者に命を下しているのか。審神者はどうして時の政府に従っているのか。それが窺い知れる情報が一切無いので想像することしかできないが、審神者の生死を含め本丸の処遇は時の政府の意のままになる可能性は充分に考えられる。
 そうした上意下達の関係であった場合、認識の擦り合わせが出来ていない可能性は高い。つまりは「時の政府が求める正しい歴史」と「審神者の考える正しい歴史」は必ずしも合致していないことも示唆しており、この相違こそが三日月宗近と小狐丸の隔意の正体であろうと考えられる。

 

 では、三日月が守ろうとする「時の政府が求める正しい歴史」とは、どのようなものなのか。

 

 様々な描写から推測するに、これはおそらく「教科書に載っている歴史年表」を想像すると分かり易い。例えば今作の劇中ラストシーンのように『文治五年(1189年)閏4月30日。源義経、衣川館にて死亡』という「年表の記述」にさえ沿っていれば、実際の生死という「諸説」の範疇は許容される。ただし、こうした「記述」が書き換わる事態は絶対に容認されることはない。そういうスタンスであろう。

 対する小狐丸が守ろうとする「審神者の考える正しい歴史」は、前述した通り時間遡行軍の干渉さえ排除すれば不変である、既に確定されたもの。ただし『三百年の子守唄』の時のような荒業が罷り通ったあたり、「記述」に沿ってさえいれば許容されるという認識自体は審神者も持ち合わせていたのだろう。
(しかし三百年~の場合は、あくまで決定的に改変されてしまった歴史への対症療法であるため、始めから形が存在せずどう遷ろうか判らないため、常に観測し時には干渉も辞さない、という政府と三日月の歴史認識とは意味合いが異なっている。)


 どう遷ろうか判らないものを、一定の形に確定させていく。時の政府が励行するこの行為は、自らにとって望ましくない平行世界の淘汰である。無造作に広がり続けようとする枝葉(歴史)を剪定することによって、根幹(時の政府)をより太く強いものにしようという果てしない作業。

 それがここまでの情報から推察される時の政府の目的であろう。

 

 ならば時間遡行軍の目的はその逆。乱れた枝葉を伸ばすことによる根幹の枯死、つまり時の政府の転覆。

 ないし多様性の確保により自分たちが陽の当たる存在になった世界を求めている等が考えられるが……時間遡行軍が出現することによって初めて刀剣男士による歴史事象の観測も成立する為(ゲーム本編をはじめ、刀剣男士が時間遡行軍に対して先手を打った例は一度も無い)、敵対する筈の時間遡行軍すら掌の上、全て時の政府の目的の為に利用されているようにも見える。

 

 検非違使の存在もまた、その推測を裏付けるものの一つだ。三百年~において検非違使が出現したタイミングは、石切丸が徳川信康介錯を躊躇った瞬間。つまり『天正七年(1579年)9月15日、徳川信康自刃』という「記述」が書き換わろうとしたタイミングだ。
「非違(非法、違法)を検察する使者」という意味の名をもつ検非違使が、「非違」とするものが「歴史記述からの逸脱」であるならば、これは時の政府の目的と完全に合致する。検非違使が何者かの遣わす使者であるならば、その何者かは時の政府以外にあるだろうか?


 だがおそらく、この事実は触れてはならぬ禁忌なのだろう。

 そうでなければ三日月は審神者や小狐丸たちに協力を求めることもでき、たった一振りで孤軍奮闘する必要もなかっただろうから。

 

 これらを考えれば、三日月宗近の行動は直截的には「検非違使の介入を防ぐ」ためのものだという見方もできる。自身が先回りして検非違使と同様の役目を担うことで、仲間たちにとって最大の脅威を排除しているとも言えるのだ。三日月が語り実践する「歴史を守る」とは、「主と仲間を守る」とも同義。


 歴史を守る。主の命を守る。

 三日月と小狐、共にその思いは全く同じ強いものであるが、その意味合いは大きく異なってしまっている。

しくしくくれくれ……

頻く頻く くれくれ
頻く頻く くれくれ

仮初めの宴 泡沫の花火
生まれては消えゆく春の夢

誰が為の 花の台

頻く頻く くれくれ
頻く頻く くれくれ

纏う黒き衣 泡沫の役目
満ちては欠けてゆく 玉桂

半坐わかつ 花の台
誰が為にそこにある
宿世わかつための 花の台

 

〇頻く頻く:(絶え間なく。しきりに)
〇くれくれ:(怠らず身軽に働く。或いは「暗れ暗れ」であれば、心が暗く、悲しみに沈むなどの意。どちらでも意味は通るが、劇中の三日月宗近の行動を鑑みれば個人的には前者を推したい)
〇黒き衣:(これに続けて泡沫の役目という詞がこれを受けているため、文脈的には単に黒子の役目を担ってきたという意味合いであるように私は思う。妻はこれを僧侶の薄墨衣、つまり誰かを悼む弔意の表現だと解釈していた模様。それも面白い意見ではある)
〇台(うてな。仏や菩薩、極楽に往生した者が座る蓮台。四方を眺めるための高所。高殿の意)
〇半坐わかつ:(同じ蓮台に二人で座ること。妙法蓮華経・見寶塔品(けんほうとうほん)における釈迦牟尼仏と多寶如来の二仏共生など、本来は条件的に容姿・能力・権威が等しく優れているとみなされた者同士にのみ許されるものだが、転じて夫婦仲が良いことの表現などとしても用いられる。ちなみに「蓮台の半坐を分かつ」は、「一蓮托生」の類義語)
〇玉桂:(たまかつら。月の中にあるというカツラの木。また、月の異称)
〇宿世:(すくせ。過去の世。前世。前世からの因縁。宿縁。宿命)

 

意訳:
陰役として、絶え間なく働いてきた。
満ち欠けを繰り返す月のように、幾度も。幾度も。
三日月と名付けられ欠けたるを定められた己と同じく、自分が座する場所の隣にはぽっかりと空席がある。
この蓮台に共に座し、同じ目線、同じ運命を背負い、この空虚を埋めてくれる友は居ないのだろうか?

 

 手前勝手な意訳ではあるが、これを踏まえた上で泰衡や頼朝への「友よ」という呼びかけ。「お前のような友は居らぬ」と返される三日月の、その胸中を想像してみて欲しい。

三日月と泰衡の語らい

 全てを打ち明けることで泰衡に「正しい歴史」を歩ませようとする三日月。頼朝に対する洗脳行為などはあくまで最終手段であり、基本的には話して諭すスタンスであることが窺える。
義経殿のこと……くれぐれも」という泰衡の台詞があるため、この時既に三日月は義経の死を偽装し逃げ延ばせることを暗に約束していたのだろう。

 「形として残ったもの」である以上、藤原泰衡源義経を殺さなければならない。その役割と宿命を理解した上で、三日月に義経のことを託すことのできた泰衡は、おそろしく開明的で聡く賢い人物であろう。

 阿津賀志山異聞で描かれた彼が滑稽なほど愚かしい様だったのも、逆に本来の彼が聡明であったことを主張したかったが故の描写だったように思える。

豹変した頼朝とその真相を探る小狐丸

 三日月が陰で何をしているのか。その一端に触れる小狐丸。
「このようなこと、許されると思うのか」という台詞から察するに、どうしてこんなことをしたのかが疑問なのであって、どうやってこんなことが出来たのかは問題ではない様子。
 つまり人間一人洗脳し操る程度のことは、小狐丸もやろうと思えば出来るんですね。